菅稲田堤1 稲田堤の桜【42】

第42話からは、「菅稲田堤」をお届けします。
多摩川堤防の補強のため桜の苗木を植えたことから、大正時代から昭和の初頭に花の名所として有名になり「稲田堤の桜」と呼ばれました。川沿いの新田と川原の二つの集落は合併して、昭和6年にその名を取って「稲田堤」と改称されました。
現在の稲田堤には以前の北浦耕地、馬場耕地が含まれます。

 

明治31年(1898)に多摩川の堤防を強くするため、中野島境から矢野口に至る土堤(どて)に251本の染井吉野(そめいよしの)の桜の苗木を植えたことから、この土堤を「稲田堤」と呼ぶようになりました。「稲田堤の桜」は昭和初期には見事な花をつけるよう成長し、東京の上野、飛鳥山、小金井と並んで花の名所として親しまれ、毎年3~4月には多くの花見客で賑わいました。京王線が多摩川まで開通(大正5・1916)して臨時電車を出すほどでした。昭和4年(1929)には南武線稲田堤駅も開通して「稲田堤の桜」を宣伝し、ラジオ・新聞でその開花予想や見頃が毎日のように報道されました。花見客の多かったのは大正の末から昭和15年頃の約20年間で、最盛期には桜の木が2000本を数えるようになりました。

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