菅のトリビア【30】料亭・筏宿「玉喜」(菅野戸呂)

30.料亭・筏宿「玉喜」

江戸時代には江戸で火事が多く、木材の産地である奥多摩地方の木材を筏に組んで多摩川を下り、深川の木場に運びました。筏師は途中で一泊することが多く筏宿を利用しました。桜の名所だった稲田堤には大正初期まで「大上丸(だいじようまる)」という一代限りの筏宿がありました。多摩川に最後まで残っていた菅の渡し近くの土手際に、大正8年、小川伊之助氏が料亭「玉喜(たまき)」を開業しました。その後、筏師が筏を岸に止めて止まる筏宿も始めました。大正の終わりにはトラックで木材を運ぶようになり、玉喜は筏宿をやめ多摩川の行楽客や釣り人相手の料理屋として繁盛しました。花見の季節には桟敷を出し、芸人や芸者が来て賑やかでした。戦時色の現れた昭和13年に閉業し、貸しボート業に転業しました。

(料亭・玉喜、横に稲田堤桜の碑が建つ 提供:小川昇一郎氏)